この連載について
現代は「予測困難な時代」と呼ばれて久しいですが、学校教育を取り巻く状況も複雑化し、大小さまざまな変革が起こっています。本連載ではその中でも、高等学校の教職員に特化した教育ニュースを、報道だけでは見えてこない側面にもスポットを当てつつご紹介します! 教育現場の最前線に立つ教職員のみなさまにとって、お役に立つことはもちろん、今話題の・これから要注目になるであろう最新ニュースをお届けします。

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現代は「予測困難な時代」と呼ばれて久しいですが、学校教育を取り巻く状況も複雑化し、大小さまざまな変革が起こっています。本連載ではその中でも、高等学校の教職員に特化した教育ニュースを、報道だけでは見えてこない側面にもスポットを当てつつご紹介します! 教育現場の最前線に立つ教職員のみなさまにとって、お役に立つことはもちろん、今話題の・これから要注目になるであろう最新ニュースをお届けします。
先日、次期学習指導要領(2030年度実施予定)における学習評価方法を見直し、「主体的に学習に取り組む態度」の評価の比重を小さくするという報道がありました*1。この字面だけを追うと、かなりのインパクトがあるニュースです。「主体性は重視しなくなる」という意味に取れますものね。
しかし、それは大きな誤解です。実際に部会で議論されている中身は、主体性はむしろこれからも教育の根幹に据えられています。あくまで、「評定への反映をやめる」というのが趣旨なのですが、正しく伝えなくては、子どもたちや保護者は混乱する可能性が高いです。
では、どうしたら正しい解釈のもとで「主体性の評価」が理解されるのでしょうか。さまざまなオピニオンが散見されていますが、特に私自身も深く首肯できたのが「『評価』と『評定』を同一視しない」という意見です。そこで当コラムでも、その視点に沿って論じてみたいと思います。

「評価」とは本来、子どもが自分の学びを振り返り、次にどう進むかを考えるためのフィードバックです。教師にとっても、生徒がどこでつまずき、どこに伸びしろがあるのかを知るための手がかりになります。言わばアプローチの手段なのです。教育心理学者のB・ブルームの説に照らせば、学習の過程で状況を把握し、改善に役立てるための「形成的評価」に該当します。
一方で「評定」とは、一定の時期における学習成果を共通の基準で記録した「証明書」と例えることができるでしょう。同じくブルームの分類で言えば、到達度や指導効果の判断に用いる「総括的評価」です。これは高校入試や大学入試、進級判定など、制度的な文脈でも使われます。
本来、この評価(アプローチ)と評定(証明書)は目的も性質も異なるはずなのに、日本の学校現場ではしばしばこの二つが混同され、「評価=評定」となりがちです。結果として、評価の本来の役割である「学びを促すための対話のきっかけ」が薄れ、評定のための点取りや行動管理に寄ってしまう現象が起きます。
今回議論されている「主体性」を教育学的に解釈すると、情意的領域が占める部分が多くなります。認知的領域に比べ、評価の客観性が確保しにくい分野です。
これまで現場では、この主体性を何とか数値化(認知的領域化・評定化)しようとして、挙手の回数、発言の多さ、提出物の丁寧さなどを基準にせざるを得ない面がありました。しかしご存じのように、これは本当の主体性とは限りません。発言が少なくても深く考えている生徒もいれば、「やる気があるふり」ができる器用な生徒もいるからです。
付言すると、塾などでは、「(評定を上げるために)答えが分かっていなくても、先生からの出題や問いかけにはとりあえず挙手しろ」と指導がなされることもあります。塾が悪いのではなく制度の問題ですが、仮に生徒たちが「教師に好かれる主体的な生徒像」を演じ、教師もその演技を「評価」しているのであれば、それはもはや“茶番”、たちの悪いディストピア小説の世界線とすら言えるでしょう。
さらに、主体性をランク付けすることは、生徒が自ら「自分は主体的ではない」とレッテル貼りをする危険性もあります。本来伸ばしたい力を、評価が逆に潰してしまうリスクをはらんでいるのです。
今回の改革の大枠は、「主体性を育てることは重視し続けるが、評定で無理に点数化しない」というものです。
つまりこれは、「主体性を評定から外す=軽視」ではなく、「主体性が大事だからこそ、評定からは距離を置く」という発想の転換と言えます。「評価」と「評定」が混同され、ラベリングや管理の道具になるのではなく、学びを深めるためのコミュニケーションツールへと戻す狙いがあるのです。
ただし、文科省の資料によると「主体性を感じる要素が他の観点(例えば「思考・判断・表現」など)と結びついて表出した場合は、それらの観点別評価に「◯」 を付記する」とあります。これが結局「評定化」する可能性はゼロではなく、今後も議論の対象となるかもしれません。
また、高校において新しい主体性評価を実践するには注意も必要です。評定は大学入試に直結するため、「評定=選抜の道具」という側面が強くなります。特に推薦系入試の比率が高まっている現在では、余計にそうでしょう。
近年は、(主体性との親和性が高い)探究学習の成果を選抜の基準に用いる大学も増えてきました。その中で主体性が「評定」として扱われてしまうと、さらに問題は複雑化します。探究を入試の素材とすることを否定はしませんが、本質を見誤ると「大学入試のための探究」になりかねません。学びがテクニック化し、あれだけ批判されてきた「入試のための勉強」と何が違うのか、ということになってしまいます。
やはり先生方にはぜひとも、日常の授業での「評価」と通知表や調査書に載せる「評定」を、意識的に分ける視点を持っていただきたいです。
言ってみれば評価とは「応援」です。「評定」は制度の中で必要ですが、日々の「評価」はもっと自由で温かいものであってよいと思います。教師の「よく考えていたね」「その工夫は面白いよ」という一言が、生徒の次の挑戦を後押しするはずです。
今回の改革は、評価を本来の役割に戻すチャンスです。評定から距離を置いた評価だからこそ、もっと率直に、もっと肯定的に、生徒の学びを見守れるようになれるはず。主体性を数値化せずとも、教師のまなざしとことばが、生徒の中に確かな主体性の芽を育てるのです。


